2024-07-29
「プロになってから、今日の勝ちが一番、嬉しい気がします」。試合後の控え室で木元紳之輔(角海老宝石)は噛み締めるように口にした。再出発にふさわしい勝利だったのだ。
元A級ボクサーの木元紳之輔さん
1月9日の後楽園ホール、2024年の国内興行の幕開けを告げる「フェニックスバトル108」(大橋ジム主催)の第3試合。木元は元日本ランカーの花森成吾(JB SPORTS)とS・バンタム級8回戦を戦った。
花森は2021年8月、当時の日本同級王者だった古橋岳也(川崎新田)に挑戦し、3回1分12秒TKOで敗れて以来のリング登場だった。ジャブから意欲的に仕掛ける花森に対し、木元も応戦。序盤から展開が熱を帯びるなかで、長身の相手にオーバーハンド気味に投げ込む木元の右が効果を発揮した。
2回には花森の左目の上をカットさせた。3回、ダメージを負わせたところを逃さなかった。後退する花森を追いかけ、右、右、右――。粘る花森を最後は返しの左フックで痛烈に沈めた。何とか立ち上がったものの、レフェリーはカウントアウト。木元の3回2分10秒KO勝ちで決着となった。
実は「チャンピオンより早く」とひそかに狙っていたのだという。古橋のタイムには58秒届かなかったが、さまざまな思いに後押しされるように手を出し続けた。
「相手はタイトルマッチ経験者で、僕にとっては格上。ここで決めなきゃ、手を出さなきゃ、あれだけバッグラッシュしてきたんだから、と思い出しながら」
一生懸命で、どこか愛嬌のある彼らしいとも言えるのだが、やむにやまれぬ裏事情もあった。後退する花森を追いかける木元の足もとがよろめく場面があった。相手のジャブか何かの反撃打が効いたのかと思ったら、「いやー、つまずいて、左足をグキッと一瞬、くじいちゃって。『痛っ! ヤバい、どうしよう』となったんですけど、あれで完全に『ここで終わらせないと』となりました」と頭をかいた。
昨年6月には井岡一翔(志成)のアンダーカードで1年7ヵ月ぶりにリングに立ち、実に4年ぶりの勝ち名乗りを受けていた。が、急きょ決定の試合で準備期間は短く、いずれもボディで無名のタイ人選手を3度倒す2回TKOの圧勝では、まだ十分ではなかったはずだった。
「今日が本当の意味での再起になったのでは」。そう尋ねると「そうですね。何年越しか分からないですけど、ようやく、という感じがします」とうなずき、「また頑張ります」と照れくさそうに笑った。
今年1月9日、木元は3回に花森を左フックで倒し、フィニッシュ
■「せめて1回、勝ちたかった」
ずっと動向が気にかかっていた選手だった。3連敗で試合から遠ざかっていた木元が適応障害に苦しみ、さらに交通事故で重傷も負っていたと知ったのは、いつのことだったか。
2021年の冬、木元は祖父を病で亡くした。母子家庭に育ち、幼い頃から祖父母との実家暮らし。コロナ禍になり、ウイルスを持ち帰らないように、接触しないようにと自主的に家を出て、家族とは離れて暮らしていたなかでの突然の別れだった。
大きなショックを受け、気持ちが落ち込んだ。「部屋からまったく動けなくなって。辛かったです」。一歩も外に出られないまま1週間、2週間……時だけが過ぎていった。
やっとの思いで医者を受診すると「うつ病に近い適応障害」の診断を受けた。薬も処方されたが、どんなに些細なことでも心が動き、やりたいと思ったことは行動に移して前を向こうとした。
少しずつジムワークやアルバイトに復帰。心が軽くなってきたと感じた2022年の夏だった。バイクで走行中に突然、車体が激しく揺れ、気づいたら体が投げ出されていた。買ったばかりの中古車が整備不良で破裂したのだった。右鎖骨の複雑骨折、右脚筋断裂などの重傷で、完治には半年以上を要した。
度重なる困難に引退も考えた。それでも心残りがあった。プロデビュー時から師事する石原雄太トレーナーを追い、ワタナベジムから角海老宝石ジムに移籍。それから一度も勝てていなかった。
「石原さんは担当選手が多いなか、忙しくても時間をつくって、1ラウンドでもミットを持ってくれたり、親身に選手を見てくれる人なので。せっかく角海老に来させていただいたのに。せめて1回、勝ちたい。それだけがモチベーションでした」
花森戦は石原トレーナーと臨む最後の試合でもあった。2月から新設のDANGANジムに移ることを知らされたのは試合の何日か前。フィニッシュの猛追には「ここで勝たなきゃ」の切迫した思いも込められていたのだ。
それから1ヵ月が過ぎた。ジムメートの応援で後楽園ホールに来ていた木元に声をかけた。石原トレーナーの師匠でもある洪東植トレーナーに見てもらおうと考えているところで、気持ちも新たに角海老で頑張りたいとと話していた。ところが3月、自身のSNSで引退を報告した。理由は網膜剥離だった。
6月、水道橋の喫茶店で話を聞かせてもらった。現在はWebプログラミングのスクールに通っており、以前、学んだ動画編集の知識と合わせ、何か生かせる仕事ができたらと考えているという。
スパーリングで右目に網膜剥離、左目には網膜裂孔を発症した。手術をし、しばらくの入院を経て退院すると、すぐにジムに現役引退の意志を伝えた。早々に仕事も決めた。考える時間ができないように、踏ん切りをつけるためにと先手を打った。が、結局、その仕事は続かなかったという。
「悲しかったですね。いい勝ち方ができたし、日本ランキングに入るという目標もあったので。落ちてる時期があって、ようやく上がってきたかな、と思ったところだったのに。『ああ、このタイミングで終わっちゃうのか』って。それが悲しかったです」
ワタナベジム時代から師事した石原雄太トレーナー(左)とのラストファイトでもあった(1月9日)
■ボクシングとともにあった半生
千葉県千葉市の出身。気の優しい少年は小学6年生の時、強くなりたい、自分に自信を持てるようになりたいと週1回、地元のスタジオで開かれていたキックボクシングの教室に通うようになる。「子どもに寄り添って、楽しく教えてくれた」という指導者のおかげで夢中になった。
一方で同級生とハマっていたのが囲碁だった。近所に著名な棋士の実家があった。その棋士を育てた父親が小学生を集め、公民館で囲碁を教えていた。千葉の小学生の大会に出て、優勝したこともあった。レベル別にグループ分けされ、力が拮抗していた分、「勝負で相手に勝つことの面白さを知った」という。
囲碁の賞品でもらった図書カードで買ったのが漫画『はじめの一歩』だった。慕っていたキックの指導者がスタジオを離れ、次に週1回、通ったのがボクシングジムだった。この頃には高校でボクシングをやろうと心に決めていた。中学の部活では「3年間、やりきろう」と柔道に打ち込み、県ベスト8の成績を残した。
ボクシングの名門・習志野高校に入学。当時は練習量が多く、朝練に始まり、放課後は約4時間に及ぶ練習、土日には合宿、他校との合同練習、対外試合など、ボクシング漬けの日々だった。
千葉、関東をなかなか突破できなかった木元の全国大会初出場は3年生の国体。ライト級でベスト8に残った。ちなみにこの時、習志野高校から一緒に千葉県チームとして出場したのが、フライ級で高校初のタイトルを獲る1年生の堤駿斗(志成)だった。
「あれだけ頑張ったのに辞めるのはもったいない」。アマチュアボクシングを続けたかったが、大学から声はかからず、プロに飛び込んだ。19歳のデビュー戦は判定負け。8オンス・グローブのパンチの衝撃に面食らったが、「テレビで見ていた憧れの世界にいる」という実感が嬉しかったという。
ワタナベジムに入門したばかりの頃だった。「プロとは何か。自分なりの答えを持っておいたほうがいい」とベテランの伯耆淳トレーナーからアドバイスされた。「面白い試合を見せること」。それが考え抜いた末の木元の答えだった。
「お客さんは高いお金と貴重な時間を使って、会場に足を運んでくれるので。もちろん、勝ちたいんですけど、面白かった、観に来てよかったと思ってもらえる試合をするのが一番で、その次に勝負があるというのが僕の考えでした。勝つことが応援してくれる人への恩返しと言いますけど、ただ勝てばいいというのはエゴなんじゃないかと」
攻めるボクシングを追求し、その信念で戦った。最終戦績は14戦8勝(6KO)6敗。27歳、志半ばでまだ気持ちの整理がつかないのが実際のところだが、ラストファイトになった花森戦は「面白い試合」を表現できたのではないかと自負している。それに「あの練習をもう1回やれと言われたら、覚悟を決めないとできないぐらい」の練習をして臨めた試合でもあったという。
この先の人生のほうが長い。どうせやるなら、興味があること、自分がやってみたいと思っていたことを、と始めたのがWebプログラミングの勉強だった。「ボクサーはここからが大変で、誰もが苦労するんやから、何かあったら、いつでも連絡してこいよ」。同い年の日本S・フェザー級7位、中井龍(角海老宝石)はそう気にかけてくれているのだという。そんなボクサー仲間の存在が心強い。
6月いっぱいでスクールを卒業。希望していたIT系の会社ではないものの、無事に就職先も決まったという。「まずは自分の足場を固めないといけない」と第二の人生に踏み出している。(船橋真二郎)