フセイン・シャー Hussain Shah ジムのムードメーカー Tweet 『ヘイ!ベイビー!』と誰にでもフレンドリー プロフィール 生年月日 1964-12-10 出身地 パキスタン ボクシング歴 25年 トレーナー歴 2004年~ 担当した代表的な選手 坂本博之、本望信人、福本祥馬 好きなボクサー モハメド・アリ 指導方針 スタミナ、フィジカルをしっかり作らせた上で、テクニックを指導すること。 目 標 チャンピオンを作ること。 角海老ボクシングジムの興行に行くと、リングサイドで奇声を張り上げ、観客の応援を身振り手振りで煽る大男の姿がある。パキスタン南部に位置する同国最大の都市・カラチ出身のフセイン・シャー氏は角海老ジムの名物トレーナーであり、愛嬌のある性格からジムのムードメーカーとしても欠かせない人物だ。 続きを読む 「平成のKOキング」と呼ばれた角海老の名選手、元東洋太平洋ライト級王者・坂本博之のトレーナーを長年務め、カタコトの日本語を駆使しながら多くの選手のミットを持っている。 推定190センチ、110キロ、その巨漢ぶりからはなかなか想像が付かないかもしれないが、24歳の時にソウル五輪にボクシング・ミドル級のパキスタン代表選手として出場、銅メダルを獲得して同国初の五輪メダリストとなった輝かしい経歴の持ち主でもある。 「キャリアの大半はアマチュア。120戦して7回しか負けてない。19歳の時にパキスタンの全国大会で初めて優勝してから、アジアを中心に国際大会で10個ぐらいは金メダルを取ったよ。オリンピックの時は国中がお祝いしてくれてすごかった。今でも建国記念日には東京の大使館での式典に呼ばれるし、こんなデブになっちゃったけど、昔はそれはそれは強いボクサーだったんだから(笑)」 屈託のない笑顔を浮かべて胸を張る。120戦7敗というキャリアにも驚きだが、「それ以外にも記録に残らない試合は数え切れないほどやった」と言う。シャー氏がボクシングを始めた理由はその生い立ちにある。 「僕が育った場所はカラチ最大のスラムだった。4歳か5歳の時に母親が死んでしまって、しかも父親が再婚した新しい義母とはうまく行かず、家を追い出されたんだ。だから子供の頃からずっと路上で生活してた。学校は一度も行ったことがないし、ゴミ山の中から鉄クズを探してそれを売ることでなんとか生活してたんだ。 喧嘩や強盗はしょっちゅうあるし、すごく治安が悪い。ボクには兄弟がいなかったから、そこで生きてくためにはタフでなきゃいけなかった。それで10歳ぐらいの時にボクシングを始めたんだけど、試合は2週間に1回くらいのペースでやるから、実際に何戦したかっていうのは正直分からないんだ」 普段は冗談が好きな陽気なシャーだが、彼の人生の背景には日本では想像が付かないような途上国特有の現実がある。シャーによれば、生まれ育ったスラム地区にはたくさんのボクシングジムがあった。 スラムで生き抜くために拳の強さが求められるのと同時に、ボクシングが厳しい生活の中で唯一の娯楽として根付いているからだという。 「路上にロープを張っただけのリングで戦うだけさ。もちろんバンデージなんてないし、グローブはものすごく薄い。そんな環境で僕はずっとボクシングをやってきたんだ。ボクシングを真面目にやるようになったのは15歳ぐらいかな。だんだん強くなってきて、地元の鉄道会社がスポンサーになってくれた。それでアマチュアの試合に出るようになったんだよ」 路上のリングでボクシングを学んだシャーは数々の国際大会を連覇、ついにはパキスタン最強のアマチュアボクサーに成長する。五輪メダリストになったことで国からは英雄として称えられ、2軒の家と土地を提供された。そして、生まれ育ったスラムからも抜け出すことができた。まさにボクシングで身を立ててきた人生である。その後シャーはスーパーミドル級のプロボクサーとして海を渡り、米国で1年、英国で2年を過ごした。戦績は4勝2敗で終わったが、英国では元世界ヘビー級王者のあのレノックス・ルイスと同じジムでトレーニングしたそうだ。 「レノックス・ルイスは強かった。一緒に練習ができたのは良い経験だったよ。でもやっぱり自分はずっとアマチュアの3分3ラウンドに慣れてたから、プロは難しかったな」と振り返る。 引退後はパキスタンに帰国して悠々と暮らしていたが、ひょんなことから角海老ボクシングジムと出会い、トレーナーとして来日することになる。 「たまたま10年ぶりに連絡が取れた友人が東京にいて、彼に会いに日本へ観光に行くことになった。友人が下町を案内してくれた後、角海老ボクシングジムの前をたまたま通りかかったんだ。ボクシングジムがあることに驚いて少し見学をさせてもらうと会長がいて、自分の事を話したら『だったらうちでトレーナーやらないか』って誘ってくれたんだよ。日本は安全な国だし、家族にとっても良い環境に思えたし、ボクシングのトレーナーなら自分にもできる。そう思って日本で暮らすことにしたんだ」 もはや運命的としか思えないような成り行きで、角海老のトレーナーとなったシャー氏。 「もしボクシングがなければ、たぶんマフィアにでもなってたんじゃないかな。ボクシングは自分の人生を救ってくれた。それと角海老ジムにも心の底から感謝してる。角海老ジムとの出会いがなければ、今の自分はないから。妻と息子3人が不自由なく暮らせてるのもジムのおかげ。息子たちには僕が経験したような思いをはさせたくないからね。だから僕は全力でジムに恩返しがしたいんだ」 試合会場で懸命になってシャーが選手を応援するのも、そうした気持ちの現れ。選手のため、ジムのために全力を尽くすシャー氏を慕う選手も多い。 「でも最近は試合が近い選手が多すぎて疲れたよ。ミット、ガンガン打たれてる。これ以上やったら僕は死んじゃうかもしれない…」 ため息をついて肩を落としながら、笑顔を見せることは忘れない。今日も角海老ボクシングジムには、ミットを持ったシャー氏の選手を鼓舞する大きな声が響いている。 一覧に戻る
フセイン・シャー Hussain Shah ジムのムードメーカー Tweet 『ヘイ!ベイビー!』と誰にでもフレンドリー プロフィール 生年月日 1964-12-10 出身地 パキスタン ボクシング歴 25年 トレーナー歴 2004年~ 担当した代表的な選手 坂本博之、本望信人、福本祥馬 好きなボクサー モハメド・アリ 指導方針 スタミナ、フィジカルをしっかり作らせた上で、テクニックを指導すること。 目 標 チャンピオンを作ること。 角海老ボクシングジムの興行に行くと、リングサイドで奇声を張り上げ、観客の応援を身振り手振りで煽る大男の姿がある。パキスタン南部に位置する同国最大の都市・カラチ出身のフセイン・シャー氏は角海老ジムの名物トレーナーであり、愛嬌のある性格からジムのムードメーカーとしても欠かせない人物だ。
続きを読む 「平成のKOキング」と呼ばれた角海老の名選手、元東洋太平洋ライト級王者・坂本博之のトレーナーを長年務め、カタコトの日本語を駆使しながら多くの選手のミットを持っている。 推定190センチ、110キロ、その巨漢ぶりからはなかなか想像が付かないかもしれないが、24歳の時にソウル五輪にボクシング・ミドル級のパキスタン代表選手として出場、銅メダルを獲得して同国初の五輪メダリストとなった輝かしい経歴の持ち主でもある。 「キャリアの大半はアマチュア。120戦して7回しか負けてない。19歳の時にパキスタンの全国大会で初めて優勝してから、アジアを中心に国際大会で10個ぐらいは金メダルを取ったよ。オリンピックの時は国中がお祝いしてくれてすごかった。今でも建国記念日には東京の大使館での式典に呼ばれるし、こんなデブになっちゃったけど、昔はそれはそれは強いボクサーだったんだから(笑)」 屈託のない笑顔を浮かべて胸を張る。120戦7敗というキャリアにも驚きだが、「それ以外にも記録に残らない試合は数え切れないほどやった」と言う。シャー氏がボクシングを始めた理由はその生い立ちにある。 「僕が育った場所はカラチ最大のスラムだった。4歳か5歳の時に母親が死んでしまって、しかも父親が再婚した新しい義母とはうまく行かず、家を追い出されたんだ。だから子供の頃からずっと路上で生活してた。学校は一度も行ったことがないし、ゴミ山の中から鉄クズを探してそれを売ることでなんとか生活してたんだ。 喧嘩や強盗はしょっちゅうあるし、すごく治安が悪い。ボクには兄弟がいなかったから、そこで生きてくためにはタフでなきゃいけなかった。それで10歳ぐらいの時にボクシングを始めたんだけど、試合は2週間に1回くらいのペースでやるから、実際に何戦したかっていうのは正直分からないんだ」 普段は冗談が好きな陽気なシャーだが、彼の人生の背景には日本では想像が付かないような途上国特有の現実がある。シャーによれば、生まれ育ったスラム地区にはたくさんのボクシングジムがあった。 スラムで生き抜くために拳の強さが求められるのと同時に、ボクシングが厳しい生活の中で唯一の娯楽として根付いているからだという。 「路上にロープを張っただけのリングで戦うだけさ。もちろんバンデージなんてないし、グローブはものすごく薄い。そんな環境で僕はずっとボクシングをやってきたんだ。ボクシングを真面目にやるようになったのは15歳ぐらいかな。だんだん強くなってきて、地元の鉄道会社がスポンサーになってくれた。それでアマチュアの試合に出るようになったんだよ」 路上のリングでボクシングを学んだシャーは数々の国際大会を連覇、ついにはパキスタン最強のアマチュアボクサーに成長する。五輪メダリストになったことで国からは英雄として称えられ、2軒の家と土地を提供された。そして、生まれ育ったスラムからも抜け出すことができた。まさにボクシングで身を立ててきた人生である。その後シャーはスーパーミドル級のプロボクサーとして海を渡り、米国で1年、英国で2年を過ごした。戦績は4勝2敗で終わったが、英国では元世界ヘビー級王者のあのレノックス・ルイスと同じジムでトレーニングしたそうだ。 「レノックス・ルイスは強かった。一緒に練習ができたのは良い経験だったよ。でもやっぱり自分はずっとアマチュアの3分3ラウンドに慣れてたから、プロは難しかったな」と振り返る。 引退後はパキスタンに帰国して悠々と暮らしていたが、ひょんなことから角海老ボクシングジムと出会い、トレーナーとして来日することになる。 「たまたま10年ぶりに連絡が取れた友人が東京にいて、彼に会いに日本へ観光に行くことになった。友人が下町を案内してくれた後、角海老ボクシングジムの前をたまたま通りかかったんだ。ボクシングジムがあることに驚いて少し見学をさせてもらうと会長がいて、自分の事を話したら『だったらうちでトレーナーやらないか』って誘ってくれたんだよ。日本は安全な国だし、家族にとっても良い環境に思えたし、ボクシングのトレーナーなら自分にもできる。そう思って日本で暮らすことにしたんだ」 もはや運命的としか思えないような成り行きで、角海老のトレーナーとなったシャー氏。 「もしボクシングがなければ、たぶんマフィアにでもなってたんじゃないかな。ボクシングは自分の人生を救ってくれた。それと角海老ジムにも心の底から感謝してる。角海老ジムとの出会いがなければ、今の自分はないから。妻と息子3人が不自由なく暮らせてるのもジムのおかげ。息子たちには僕が経験したような思いをはさせたくないからね。だから僕は全力でジムに恩返しがしたいんだ」 試合会場で懸命になってシャーが選手を応援するのも、そうした気持ちの現れ。選手のため、ジムのために全力を尽くすシャー氏を慕う選手も多い。 「でも最近は試合が近い選手が多すぎて疲れたよ。ミット、ガンガン打たれてる。これ以上やったら僕は死んじゃうかもしれない…」 ため息をついて肩を落としながら、笑顔を見せることは忘れない。今日も角海老ボクシングジムには、ミットを持ったシャー氏の選手を鼓舞する大きな声が響いている。 一覧に戻る